思う
2005年 06月 19日
日曜日は娘の教会学校で一日が始まります。通っている幼稚園がキリスト教系の為、努力義務として自宅近くの教会学校に通うと事なっている為です。
そこで昔「夏休みのラジオ体操」よろしく、通った日にその証明のシールを貰って、幼稚園で配られる手帳に貼って、学期末に提出する事になっているのです。
以前にも同じ事を書いているのですが、普段宗教心を感じない(或る意味一般的な無宗教…正月やお盆もするしクリスマスもする。時折田舎の祖父母のお墓を参ったりするし…)ナチョパパですが、教会で牧師さんの話を聞くというのは、なかなか荘厳で良いものです。
ただ…話の内容によって、心の何処かには疑心というか…「それは無いだろう」とか「本気でそれを考えているのか?」と、不埒な心があって…「あー僕みたいなタイプは、死ぬまで分らないだろうなあ~」と妙に覚めていたりするのです。
多くの人がそうなのか分らないのだけど、「何か心に支えになる物がある」とか「守るべき者がいる」とか、そう言う場合人は強くいられる気がする。でもそこに至る迄に「宗教」的なものの介在をどこまで許すのか…って事の線引きがボクは本当に難しい。
例えばマザーテレサのような存在はどうだろうか?
ただ「宗教はいかがわしい」「宗教は胡散臭い」と毛嫌いして実際に何もしない人と、いかがわしくても実際にそれで多くの人に精神的安らぎを与えた人がいることを思うと…。 もうボクは答えが出せなくなる。
個人の信条をなんら否定する気も無いし、ましてや「君も祈りなさい」という気はさらさら無い。でも時々「幸せに生きる」ということはどういうことなのか?改めて考えたり、語ってみるのも良いかも知れない。
by nachopapa
| 2005-06-19 11:53
| 今日という日